小数と分数で数を表すことについて、考えてみよう。

 さて、1より小さい数を数えるには小数や分数を使います。これが難敵です。

日本語では、9まで数えてもう1つ増えると、「十」というまとまりをつくって、それを数えます。「十」も9まで数えてもう1つ増えると、「百」というまとまりを作ります。10で大きなまとまりを作る10進法です。それにならうと、もとの「ひとまとまり」より小さい数を表すには、10等分した小さなまとまりがなければなりません。

じつは、日本語には「分」とか「厘」とか「毛」という数詞があります。

もとの「ひとまとまり」を10等分したものを「分」と言います。それをさらに10等分したものを「厘」といい、さらに10等分したものを「毛」と言います。したがって「3分4厘2毛」といえば、0.342のことです。ただし、割合に使う時は「割」の10等分が「分」になるので要注意です。何をもとの「ひとまとまり」にしているのか、確認する必要があります。

さて、アラビア数字では、「分」を0.1と書き、「厘」を0.01と書き、「毛」を0.001と書きます。なので、「0.3は、0.1が3こです。」といいます。これはちょっと変ではないでしょうか。「30は、十が3こです。」にならえば、「0.3は、分が3こです。」としなければなりません。ところが、現代の日本語では、分ゃ厘や毛は使わないことになっているので、そのかわりに0.1や0.01や0.001を使うことになっています。「1」というのは、ほんらい個数の「1」であって、「ひとまとまり」を表すものではないのに、「0.1」はそのまま読んで、しかももともとの「ひとまとまり」を10等分したものというあらたな「ひとまとまり」を表すのに使われてしまっているわけです。これは、実はおかしいのです。たぶん、今日に至るまで、数が何を数えているのかを明確にしてこなかったために「1」を「ひとまとまり」の代わりに使っていたことが大きな要因だと思います。

大きい方の10,100,1000を「十」「百」「千」と書けばそれが「ひとまとまり」なのだということがはっきりするわけで、アラビア数字でも10は「じゅう」、100は「ひゃく」と読むので、違和感なく使っているわけです。ところが小数の、0.1、0.01、0.001は「ぶ」「りん」「もう」とは読まないので、ちいさな「ひとまとまり」ができたという理解にはならないので、混乱が起こるわけです。というわけで、「0.1」をそのまま「れいてんいち」と読んで、「10等分したひとまとまり」とするのは、いわれてみればおかしいでしょう。

この矛盾は分数でも同様です。「1/3」は、もとの「ひとまとまり」を3等分したあらたな「ひとまとまり」です。臨時として「3等分割」と名前を付けると、「1/3」は、「1・3等分割」と表現する方が理にかなっているわけです。したがって、「2/3」は、「2・3等分割」となります。一般化すれば、「n/m」は、「n・m等分割」となります。

「2/3」を「3分の2」と読むのは、「30」を「3十」と読むのと逆順です。「3十」では、個数を言ってそのあとにまとまりの大きさの「十」を言います。ところが「2/3」では、3等分したひとまとまりということを言ってから、その個数を言います。小数も「300」のような2桁以上の整数とは逆順です。つまり、「0.03」では、「零点零」で、100分割したものということを言い表し、その後、「3」とその個数を言います。

これでは、大きな数や小さな数を表わす時に、もとの「ひとまとまり」に対して新しい「ひとまとまり」をつくって、それを数えるという理解につながりにくいわけです。子供たちの頭の中では、いったい何を数えているのかわからなくなってしまっていると考えられます。

数の表現や書き方は、長い歴史の中で工夫されたものなので、それを否定するわけではありませんが、こういう不合理とか子供たちがはまってしまう落とし穴が、数の表現の中にもあちらこちらにあるのです。それに対して、「ひとまとまり」と「まとまりの個数」いう用語を活用すると、それらの疑問を解消するための説明が明確にできるようになると考えられます。ときには「見えないまとまり」を数えることもあります。「ひますの絵」の中の「○」は、その見えないひとまとまりを「見える化」しているわけです。

おとなは慣れ切っているので数の表現対して疑問を持っていないと思われますが、子供たちが数の表現を受け入れていくためには、様々な障壁があることを理解して、それにていねいに対応していく必要があるということを心に留めておく必要があります。

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