「ひます」の用語について考えてみたいと思います。
「ひとまとまりの量」という用語は、言いえて妙のところがあります。
人間は、なんでもかんでも、「まとまり」を作って数えているわけです。場合によっては「区切り」といってもいいかもしれません。説明の時は、どちらも活用していいことにしたいと思います。ただし、「区切り」片方だけ使うのではなく、必ず「まとまり」という言葉を並列的につかって、こちらの方がメインだということをにおわせてください。
「数」は、その「まとまり」を数えているわけです。同じ大きさの「ひとまとまりの量」がたくさんあるから、その「まとまり」を数えれば、それらの合計の大きさがわかるということになります。なので、「まとまりの個数」という用語も、言いえて妙なのです。
さて、「すべての量」という用語はどうでしょうか。これについては、今現在も考慮中です。この用語が適切なのかどうかについては、今後も検討していくつもりです。でも、今現在としては、これ以上の用語を見つけることはできていません。
たとえば、「すべての量」というのは、「ひとまとまりの量」×「まとまりの個数」で求めるわけですから、「まとまりの個数分の量」という意味合いがあります。
ところが、「すべての量」は、「測定される量」という面もあります。たとえば、何らかの長さの場合、その大きさを「数」にするには、メートルなどの何らかの単位を使って、何個分かを測るわけです。その何らかの単位は「ひとまとまりの量」です。そして、何個分かというのは「まとまりの個数」です。つまり、「測定される量」÷「ひとまとまりの量」で、「まとまりの個数」である「数」を求めるわけです。
これと同様の問題点は、「割合」の用語でも存在しています。「比べられる量」です。これは、明らかに「測定される量」という意味での用語です。「元にする量」の「何倍」から求められた量という意味合いが感じられなくなっています。「割合」の定義にこだわってしまったために、こういう片手落ちの用語が出来上がってしまうわけです。
「Aは、Bの、3倍です。」という文を考えるならば、Aが主語で、Bが元になる量で、3倍が割合なのですから、「元にする量」「何倍」「主人公」というような用語が当てはまる状況もあるわけです。
そういうさまざまなニュアンスも含めて、「すべての量」は場面によってさまざまな意味に取られるのだと承知してもらう必要性があります。「すべての量」という用語は、「ひとまとまりの量」と「まとまりの個数」という用語とセットで使うことで、意味の分かるものになっているということです。そして、「ひます」はそれら3つの明確な乗除関係を想起させる用語にもなっているわけです。
「速さ」を例として従来の用語を見てみましょう。「速さ」で使われる「時間」と「道のり」は、「速さ」の定義で結びついているだけで、「時間」は「時間」という独立した量であり、「道のり」は「長さ」という独立した量であるわけです。「速さ」というものをどう考えるかによって、その3つの乗除関係は違ってきてしまいます。「ひます」のように確定した乗除関係があるわけではありません。たとえばマラソンのペースはとらえ方によっては「速さ」です。それが、「1km3分だから、10kmでは30分だ。」などと使うわけで、これは、ペース×距離が時間になって、通常使っている「速さ」という考え方とは違うわけです。だから、[「速さ」を、「単位時間で区切った移動の長さ」という「ひとまとまりの量」とする]、という風に定義するか見定めるかしないと、「速さ」と「時間」と「道のり」の乗除関係が確定しないわけです。
そういう意味で、「ひとまとまりの量」という視点は、実に重要です。それとセットになっている「まとまりの個数」と「すべての量」という用語も、今までには存在しなかった重要な視点なのです。数を考えるとき、「まとまりの個数」を数えているのだということを意識して見てください。そして、そこには必ず「ひとまとまりの量」が存在しているのです。課題を解決するためには、何を何でまとめている「ひとまとまりの量」なのか、ということを明確にする必要があります。
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