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数があるということは、ひとまとまりの量があるということだ。

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 数は、数えるという行為から生まれたといえると思います。 その時に数えたものは何でしょうか。 たぶん、何らかの収穫物だったと思われます。栗とかウサギとか、食べるものでしょう。 集団で獲得した収穫物は均等に分ける必要があります。一人で採集したものであっても、家族がいれば、食料を一人一人に均等に分けようとするでしょう。 何人かで分けることを前提にして、ある程度の収穫量を目指し、それを分配する。 それらの行為を集団のメンバーが納得いくようにできなければ、その集団を長期間維持していくことはできなくなると考えられます。当然、メンバーの数が増えれば、大きな数を数える必要が出てくるし、一人分を均等にすることにも正確さが求められるようになるでしょう。 以下の図は、これから多用する「ひますの絵」という図です。 「ひ」は「ひとまとまりの量」、「ま」は「まとまりの個数」、「す」は「すべての量」という用語です。 人は、もともとひとまとまりになっているので、すぐ数えられます。収穫物は、まとまりになっていないものもあります。その時は、入れ物など何らかのまとまりを作って数えます。 言葉としての数というものが存在しなかった昔であっても、数という概念そのものは存在したと思われます。つまり、メンバーの数を指などの数と一対一対応させることや、一人分に必要な食料の量を適当な容器で測ったり、普段の食事量などからイメージすること、さらに、メンバーの人数と一人分の量をかけ合わせた全員分の食料の量を把握することなど、これらはすべて数の概念や構造を内包していると思われます。その数の概念と数そのものを生み出したのはどういう認識と必要性だったでしょうか。 人間一人一人は、同じ価値を持つとみなされること。 一人分の分け前は、それぞれ等しくするということ。 それらを認識したうえで、その「同じ価値を持つとみなせるもの」を数え、記憶し、伝え、記録するために、数という言語的な存在を生み出す必要性が生じたのではないでしょうか。 つまり、人間が集団を作って生きていくには、「同じ価値を持つとみなせるもの」を複数作る必要があり、それらを正確に数えることができるというのが、「数」の始まりなのだと推定できると思われます。これが、数というものについての私の発想の根本です。 人間は、あらゆる物や量を、等しい価値を持つ「ひとまとまり」にし...